再復刊52号 巻頭言

「非思料」

高歩院 垣堺玄了

 我々は小さいころから、目標を持ち、その実現手段を講じ、スケジュールをたて目標をクリアすることを、これでもかこれでもかと教育されている。それは社会人にとって必要かつ重要な素養だからである。また、人間の脳はこの目標志向型の行動を支える部分が非常に発達していると聞く。例えば、会社では年間の売上目標、損益目標をたて、それを達成するための手段を講じて実行する。目標達成に向けて問題、課題が発生すればそれを除去すべく対策を練り、解決のための仮説を立てる。この問題はこういうことで起こっていると。競争社会ではこれが望まれ、またこれに応えようとする。しかし、この仮説のたてかたが問題になる。鋭い洞察に基づいた透徹した仮説でなければならない。言い換えれば、現実を直視し正しく認識し、問題の根幹を捉え、しかも普遍性を持った解決法を示唆する仮説でなければならない。そこには自分勝手な思いが入り込む隙はない。普遍性があるということは誰でも納得し且つ用いることが出来るということだからである。

 先ほどの目標志向型の行動とは違って、こちらの能力はあまり訓練されているとは思えない。むしろ、特殊な能力、先見性を持った一部の人の得意技と認識されているかもしれない。そのため、一見、論理の通った仮説と解決方法のように見えても、実際は実効のあがらないことがある。それは現実を自分の見たいように見ているからである。事実に逃げることなく真っ向から立ち向かい、受け止め、問題の本質を見極める冷静さが必要なのだが、これには、現場に向かいあう根気と自分を騙さない正直さが不可欠だと思う。

 

 嘗て、居士として仕事をしていた時に、人のいない真夜中、現場で一人座りこみ問題解決を探ったことがあった。机の上で考えても解決できなかったからである。神経は集中しているが極度の緊張があるわけでもなく、さりとてボーッとしているわけでもなく、只々座り込んで現場と向き合っている。どのくらい経ったであろうか、突然答えが向こうから飛び込んで来た。それも確信をもって。座り込んでいるうちに現場の空気が肌から入りこみ、自分の考えを総合的に修正し、示唆に至るのではないかと勝手に解釈している。

 

 我々は、問題を与えられると、無意識のうちに、それを解くためのプロセスを考えていることがある。プロセスが先だから、そこには暗に答えが隠れているように思う。それと同じように、公案を拈提するときも、すでに見解を想定して、その見解と公案が合致するような論理を組み立ててしまってはいないだろうか。否定されると、別の引き出しから答えを用意してまた同じことを繰り返す。自分では気づかずにやってしまう。私もさんざんやった。公案は三昧になるためにあるものである。ただひたすら、公案と同化する。そうすると、公案の細かいところや、全体の構造なども浮かび上がってくる。そうなって、時間の経つのも忘れたところに、ああ、こういうことかと発明がある。これには、なによりも公案に全身全霊を預けてしまわないことにはどうしようもない。これが非思量ということだと思う。