高歩院縁起

 七月十九日は、山岡鉄舟先生示寂の日である。先生は明治二十一年のこの日に五十三歳で逝去されたのだから、今年で丁度六十八年になるわけである。わが高歩院は、鉄舟先生の邸趾に、先生を開基とし、先生の諱を寺号として建てられたのだからいまこの日を迎えるに当って聊か縁起を述べ、もって先生を追憶するよすがとするのも必しも無駄ではあるまいと思う。

 

 現在、高歩院のある中野区小淀町三十一番地は同一番地の面積が一万一千七百余坪というから相当に広い。これが全部山岡邸であつたのである。先生がいつからここに住みついたか、調べればきっと判ると息うが、不精をしているのでよく知らない。

 

 先生の住まわれる前には加太氏の別荘があつた。加太氏とは、江戸十二商の一人といわれる麹町の豪商伊勢八のことだという。いまでも安積艮斉が選し、巻菱湖が書いた「成趣園記」という碑が隣地にあるが、その文によると、この地は古くから加太氏の所有で、通称小淀山又は天狗山上呼び、老松古梅うつそうとして昼なお暗く、里人は天狗が住むと恐れて通行する人もなかつたそうである。艮斉は加太誠之の依頼で天保十一年に碑文を書いたのだが、その誠之の父八兵衛が小淀山に初めて斧を入れ、数室の雅致に富んだ家を建てて、これを成趣園と命名したとある。

 

 先師精拙和尚がこの土地を手に入れ、鉄舟先生の息女松子女史とともに検分したとき、女史は池の畔の雑草の生い茂った辺をしきりに探していたが「この辺にたしか弁天様があつた筈だ、父がこの弁天様は霊験あらたかだから、決して粗末にしてはならぬ、とよく言われたのを子供心に憶えている」と述懐されたそうだが、その弁天様のことも艮斉の碑文に出ているから相当古いものである。この弁天様はいまもわが高歩院の鎮守として邸内に奉祀してあるが、池の方は惜しいかな昨年埋められてしまつた。弁天様も定めし岡にあがった河童同様の身を嘆いて居られることであろう。

 

 明治七年三月、鉄舟先生は内勅を奉じて薩摩に下られたが、南州翁に出廬の意の全くないのを看破して、ついに一言もそのことにふれず、南州翁また鉄舟先生来薩の意旨を察してこれを聞かず、両雄数日を指宿に閑遊されたそうである。その時、互に別離の意を含んで揮毫し合つたが、鉄舟先生は特に南州翁に乞うて自邸の号「成趣園」の三大字を書いて貰っている。これは現在でも全生庵に珍蔵されている。あたら名筆も全生庵では所を得ず、夜泣きをしていることであろう。全生庵としても、他所の園号では掲げても置けず、宝の持ち腐れに違いない。

 

 明治十一年八月、竹橋騒動あり(或は明治六年皇居炎上の時ともいう)この夜鉄舟先生は着換の予猶もなく寝衣に袴をつけ、腰に一刀を打ち込んで、この小淀の邸から馬を駆って馳せ参じ、御宸慮を安じまつたのである。しかしその時、側近に奉侍すべき身が、急場の間に合い兼ねるような遠い所にいたのでは恐懼に堪えぬと感じ、四谷のいまの国会図書館の附近に移られたのである。そして小淀の方は伏見宮家に献上され、爾来その別邸となつていた。

 

 かくて、かつて南州、海舟等と?々相会して国事を語った史蹟であり、また伏見宮別邸となってからは、大正天皇の御幼少時代に何回か御来遊のあつた由緒ある邸も、星還り歳変って昭和十七年には、大阪の一老人の手に渡ってしまった。老人は以上のようないわれを知って、その中心部の池を環る一角を、当時臨済宗管長であつた関精拙禅師に寄進されたのである。

 

 精拙先師はここにおいて「乃ち一茎草を挿んで鎮国山高歩院と名く」る「鎮国の道場」を建立せんと発願して、広く同信同願の士に助力を求めた。即ち地中の島上に六角堂を営み、鉄舟居士の念持仏であつた聖観世音菩薩尊像及び鉄舟居士の露牌を祀り、一面「この聖蹟史跡を後世に遺し且つ鉄舟居士尽忠報国の真精神を顕揚して、やがて鎮国の霊場とも成し得ば」と考えたのである。

 

 内にあってこの願行を補佐したものは山田無文師等、外にあって寡財にカを添えたものは石井光次郎、納賀雅友、今松治郎氏その他下記の人々であった。

 

 昭和十八年五月八日落慶、三日間に亘って供養を行った。会する者、本庄繁、林頼三郎、阿部信行、山本実彦、高橋三吉、阿部賢一、緒方竹虎、香月保、竹橋雄豺、吉野伊之助、下郷伝平、白根竹介、遠藤柳作、安井大吉、椎名悦三郎氏等朝野の名士百余名。その日、精拙先師の祝語に曰く

 

  茅庵を盤結して高歩に倣う

  園林趣を成しで千祥を発す

  龍池擎出す円通の境

  永く安禅鎮国の場と作さん

 

 しかし、昭和二十年五月の空襲によって、そのうつそうたる園林は跡方もなく消え、また先師が龍王池と称した池も潰え、紛争の結果は敷地も縮少していまはわすかに二百五十坪の地に、建坪四十一坪の見る影もない文字通りの茅庵となつた。檀家なく、基地なく、不肖の赴任した昭和二十二年の頃は、ただ焼け残りの書院あるのみで、寺財とて全く一物もなく、正にボロ鉄と言われた「高歩に傚う」にはもつてこいであつた。

 

 ただ開基鉄舟大居士の遺芳、開山精拙大和尚の禅風、これだけあれば「安禅鎮国の場と作」すに、何ぞ一物を添うるの要あらんや、と爾来発憤精進しているところである。

 

 精拙和尚は、滴水禅師を勧請開山とするつもりで、自らは「高歩第一世」の印まで彫っていたが、和尚遷化ののち牧翁管長、無文老師等と相談の結果、精拙和尚を開山としたものである。(大森曹玄 記  昭和三十年 鉄舟誌より)