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十牛図提唱9

鉄舟再復刊68号掲載(垣堺玄了)

人牛俱忘 序八

凡情脱落して、聖意皆な空なり

有佛の處、遨(ごう)遊(ゆう)を用いず

無佛の處、急に須く走過すべし

両頭に著せずんば、千眼も窺(うか)い(がい)難し

百鳥華を含むも一場の懡(も)攞(ら)


意訳

 あちこち引っかからなければ、よし。

 それでよしと分かれば、よし。

 ピーピーヒャララ ピーヒャラ。

 祭り囃子の音がする。


人牛俱忘序八

 前回の「忘牛存人」では牛と一体となっている自分ということでご説明いたしました。今回は人も忘れたということになっております。

 よく我を忘れるということを言います。夢中になっているときのことですが、子供を見ているといつもこんな状態です。それでは、それはここでいう人を忘れるということでしょうか。

 

 前回の忘牛存人は牛に全幅の信頼を置いているところです。牛とは道です。今、自分が歩んでいる道への不安不信というものが無いところです。

 

 確固たる足取りで道を進んでいます。この道の先の明かりを確信しているのです。ですからその道と自分とは一つになっているのです。

 いくつもいくつも道が見えていたり、枝分かれすることもないのです。一本の大きな道があることを確信しています。迷っていないところです。ぐいぐい進んでいる。

 このような心境がどうして起きるのかは専門家にお任せしますが、長い間一筋に道を求めている時にふとしたところから自分の考えというものが脱落してこれが求めている道だと知ることになるのです。

 

 これが確信できますと禅の公案でよくいわれる「いついかなるところ、いかなる時にも公案を拈提しなさい」ということが無理なくできるようになります。それまでは「いついかなるところでも、いかなる時でも、拈提しなければならない」というふうに自分に強制するのですが、この段階になると気が付いたら拈提していた、というふうになります。

 これがその道と自分が一体になっているところです。こうなるとひとまずの目的地に到着することは時間の問題になります。

 そしてその道を行くのになんの苦労もなく行きつづけると満を持したかのように、自ずと目の前に姿を現すものがあります。それがいつも言います本源、本性、根源と呼ばれるものです。仏性とも呼びます。

 

 この時、そのものを獲得したのではなく、もともとあったものに気が付いただけということがわかります。もともとあったのにどうして気が付かなかったのか、その理由もハッキリします。そしてそれが自分にだけではなく万物、宇宙を貫いていることも分かります。

 ですから、道案内の牛も必要なかったし、求めることも必要なかったのです。もともと誰もが持っている特別なものではないからです。

 

 しかしこれは、ないものねだりと同じで、なければ欲しい欲しいの一点張り、子供なんかに不憫かけたくないというのは親心ですね。

 一旦手に入れるとあれだけ欲しがっていたのに、それこそそれが嘘のようで、つきものが落ちたようにもう欲しがらない。そんなところとよく似ています。いつでも手に携えることができるという安心感がそうさせるのだと思います。

 

 ここを牛も人も俱に忘れると表現しているのです。道を示そうと思えばいつでも示せる、歩いてもいける、そしてその行先をきちんと把握しているから、あくせくもしないし、もうあちこちと欲しがることもないのです。

 その時人は、自分がどこから来てどこへ行くのかそして今どこにいるのかということがわかります。つまり自分とは何ものかがわかるのです。しかも人に評価されるのではなく、自分で自分をとらえているのです。そしてそうなった自分の眼に世界が今までとは変わって見えるのです。

 自分の眼で見るというよりは世界がそのまま自分の眼に飛び込んでくるという表現の方が的確かもしれません。そして、今まで見えなかったものが見える、その姿に驚くこともあるのです。

 

 そのもののそのままの姿が見え聞こえ、そのままに認識し、そのままに行為する。ここに従来のあちこちに引っ掛かる自分は存在しません。

これが人を忘れるということです。新生の人があるのです。

 

 聞くともなしに遠くの祭りばやしが聞こえてくる。ピーピーヒャララ ピーヒャララ。

忘れておったわい、懐かしいな。

 

 禅の本に書いてあることが理解、納得できないことを十牛図の言葉を借りれば「法に二法あり」となります。つまり、禅の本に書いてある法と自分で理解した法のイメージの二つが存在するということです。

 先ほども申しましたように、本に書いてあることに共感でき、自分もそうだと思う、自分の体験からこれはその通りだ、と言えることができれば書かれていることと、自分とは一つになっているわけで、二つの法はないわけです。ここを十牛図では「法に二法なし」と表現しているのです。それは、法に洋の東西なく、無限の過去から無限の未来までを貫くものと得心し、当然自分をも貫いていると得心することす。ここに法を得心した「人」が存在することになります。臨済禅師のおっしゃる「真人」を実感する「人」です。この実感体験があれば、自分の足で立つことができます。牛に乗らなくても道を歩むことができるのです。ですから「忘牛存人」とここで言うのです。

 

 「禅は実参実究」である、と言われます。禅の本には必ず書かれているのですが、そこに飛び込むことなく、相変わらず本の内容を理解しようとする方が多いのは残念です。

 実際に飛び込むことなく、周囲を回っているのは、自分の問題意識がそれほど高くないことを意味します。本当に切羽詰まってしまえば、藁をもすがる思いでやらざるを得ないからです。

 

 牛に乗らないと道が歩めないのでは牛まかせ。自分の足で自分の意志で堂々と歩もうと思えば、足腰を鍛えることがどうしても必要です。それが実参実究です。

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