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十牛図提唱7

鉄舟再復刊66号掲載(垣堺玄了)

騎牛帰家 序六

干(かん)戈(か)已(すで)に罷(や)んで得失環(ま)た空ず

樵(しょう)子(し)の村歌を唱え児童の野曲を吹く

身を牛上に横たえ目に雲(うん)霄(しよう)を視る

呼喚すれども回えらず撈(ろう)籠(ろう)すれども住(とど)まらず


意訳

 もう修行を始めて何年になろうか。

 気が付いてみたら、聞こえるのは村人の樵歌、子供の明るい歌声ばかりであった。

 あれだけ追い求めていたものがこんな身近にあるとは。

 しかし、こんなところで一息つくわけにはいかんぞ。

さあ、もうひといき。


騎牛帰家序六

 「牛に乗って家に帰る」ということから修行が一段落したイメージがあるかもしれませんが、そういうことではありません。

 坐禅であれば、毎日に行うのになんの抵抗もない、というようなことです。朝、昼、夜と食事をいただくのと同じ感覚です。

当然、坐禅する意味と効果についても十分認識しています。

 

 「坐禅しなければ」という思いで坐禅している間は苦痛なのです。その苦痛を和らげる一つが道友です。先輩方も皆、同じ経験をして十年、二十年と修行を続けているのです。そういう方の一言が苦しいときの一服の清涼剤になります。

 その意味で道場に来ることは大切なことです。オンラインでも一部そういうことはできますが、道場で直接には敵いまぜん。

そのようにして坐禅ならば、それが身についてきたことを示しています。

 そして帰家というのは、本分のところに居るということですが、一人で家でも道場と同じように坐禅していると、とっても良いでしょう。

 禅では公案修行を杖に例えます。杖がないと、若者であっても体力の乏しい間は山道を登るのが苦痛だと思います。

 しかし、何度も山道を登ることで体力がつけば、やがて杖はいらなくなります。

 そうなると、山道を登っても、余裕ができて周りの景色も十分楽しめるようになるでしょうし、他の人の面倒をみることもできるようになります。禅の修行も同じで、公案が十分自分のものになれば、もう公案という杖はいりません。

 しかし、騎牛帰家というのは牛がいますから。牛という杖をまだ必要としているのです。ですからまだ先があるのです。自分を鼓舞し一層楼を登っていく必要があります。

 僧堂でもそうですが、ベテランになりますと修行生活に慣れて何事も苦にならなくなります。しかし、それは僧堂という守られた環境の中にいるからです。一度、外に出れば、そうはいきません。修行が進んだと安心してはおられぬところです。

 それが、「呼喚すれども回えらず撈籠すれども住まらず」とあるところです。まだ、先があるぞと心を引き締めているところです。

 

 私の修行しました神戸祥福僧堂の大書院には、その玄関にこの騎牛帰家の衝立が置かれています。

 雲水が僧堂を去って自坊に戻るとき、この牛に乗って家に帰るように、自坊でも修行を続けてくれよ、という思いが込められているのです。

 同時に、開山忌などで祥福僧堂に戻ることがあれば、やはりここが家である、という意味も含んでいると思います。

 肉体的にも精神的にもギリギリのところで過ごした何年かが、今では嘘のようである。苦しい思いも今ではすっかり楽しい思い出に変わっている。気が付けば、あれほど怒られたことが全て役に立っている。そしてよくぞ、あれだけ叱ってくださったという感謝ばかりである。

 しかし、そんな思いにいつまでも耽てはおられん、修行の場を移してさらに一磨き、二磨きをというようなところではないでしょうか。