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十牛図提唱6

鉄舟再復刊66号掲載(垣堺玄了)

牧牛 序五

前思纔(わずか)に起これば、後念相随う。

覚に由るが故に以って真となる。迷に在るが故に而も妄と為す。

唯だ由境の有るのみにあらず。唯だ自心より生ず。

鼻索牢く牽いて擬議を容れず。


意訳

 やっと本来の面目に出会えたとはいえ

 ちょっとでも起これば、次から次へと涌き上がる念

 妄想に終わるか清浄となるか

 それは己の心次第

 ぐっとたずなを絞めて気を許すまい


牧牛序五

 前回の得牛で牛(本来の面目)を掴まえたのですが、どうもその牛が暴れる。どうしたものか、というのがここの牧牛です。

 ここで念というのは、いわゆる自我意識と考えても良いと思います。少なくともこの段階ではそうでしょう。自我意識というのは自己中心ということと結びつき、否定的な意味にもなります。

 この自我意識を断っても断っても断ち切れないので問題となるのですが、ここではそれを断てとは言っていないのです。己の心の持ち方次第であると言うのです。

 

 自我というのは、本質的にどこから生じて来るかというと、我々の持つ「生きる」という強烈な本能からだと思います。この本能なくして人類の存在はありえないのです。また今語っているように禅もありえないのです。ですから、ある意味すべての活動の源と云えるわけです。その意味でこの自我意識は先ほどのように否定的でもなければ、また肯定的でもないのです。

 ところが、今申しましたように、人間活動の源泉ですから、大変強烈です。ですからこの本能が本能そのままであれば、強い欲望、強烈な感覚などというところに留まるのです。そして、それはエスカレートして留まるところを知りません。

 

 それが今日、経済的刺激、情報の刺激を求めることに繋がっていると思います。そしてますます、個人主義的になっていき、念がどんどん個人化していくのだと思います。

 一方で我々は一人では暮らしていけません。これは自明なことです。共生しなければ生きていけないというのはある意味、個人の自我意識でもあるのです。そして個人と共生という狭間で葛藤するのが日常の生活ではないでしょうか。

 個人化していく欲望を、道徳的、倫理的なカバーで被い、政治などにより解決しようとするアプローチもありますが、それは、一方で個人的な欲望がなければ存在しないことですから、これでは永遠に解決しないのです。

 しかし、そういうことも含めて、ここでは、心の持ち方次第だと言っているのです。気の持ちようだとよく言いますが、これはどことなく竹槍的なところを感じてしまいます。ここでいうところの心の持ち方というのはそういうことだけではありません。良いも悪いも含めて全ての念の発せられる源ということを仏法では空と言っております。般若心経でいうところの色即是空 空即是色の「空」です。空とはすべてのものの本源です。それを「心」とここでは言っているのです。

 通常に心(こころ)と言っているのは、ここでいう念のことです。

 

 さきほどの心の持ち方次第だというのは、自分の中にある心、すなわち念で判断するのか、この本源なる心、空によってて判断するのかということなのです。

 念がこの本源に裏打ちされた時に、もっと正確にいうとこの念が本源そのものの念となった時に、良い悪いと思っていたことが全て肯定される。別の言葉でいえば真となるのです。そのとき、世界の様子が一八〇度変わってしまいます。同時に、他の人の言動を見聞きして、ああ、俺もそうだったと急に接近して来るのです。

 これが真の意味の共生だと思います。政治などを通じて自我意識の制御を試みることも緊急時には必要ですが、これではどうしても対立は残ります。そうではなく、本源にまでさかのぼって、その本源の持つ力を体験し、その体験から世界を見てはじめて対立がなくなるのです。このとき、自分も、他人も安心できるのです。

 

 十牛図のこの段の「唯自心より生ず」というのは、このことです。繰り返しになりますが、この自心というのが単純に本能だけに基づくのか、その本能を導き出す、本源、つまり本来の面目に基づいた自心なのかで念というものも真か、妄想かに分かれると言っているのです。

 

 このことは、生きる根拠に繋がります。自意識の範囲に留まれば、この十牛図にありますように境、つまり外部の要因により心は左右に振られる、有る時は天に、ある時は地獄に、となっていくのです。このため、なんのために生きているのだろうと、生きる根拠が曖昧になるのです。

 ところが、その生そのものの根源をつかまえ、その力を知ることができれば、そのことが生きている証拠となって生きる根拠となります。同時に自分を含めた世界というものを第三者的に見ることになりますので、当処に全力で向かうことができるようになるのです。

 白隠禅師の坐禅和讃にある「当処すなわち蓮華国」というのはこのことです。これに気づかず、今ある心が全てであるとなると、すべて自己中心のエゴイズムで動くことになるのです。

 

 本文に戻りますと、この牧牛は得牛の次ですから、すでに本来の面目、本源を掴まえているわけです。その起こる念も本来はその本源から起こるのですから自己中心的にはなっていないはずです。牛が暴れていないということです。それにも関わらず、牛を飼いならすということはどういうことなのでしょうか。

 これはもちろん、本能はそれほど強いものである、ということと関係するのですが。念を自己中心的にしてしまう何者かが常にあるからそうなっていると考えることができます。それは我々が日常使う言葉にあるといってよいと思います。

 常日頃、話す時はもちろん、考える時にも言語を使っている。この言語は具体的なことも、抽象的なことも取り扱え、どこにでも運べるという利便性はあるのですが、反面どうしても頭で取り扱うということになってしまい、体で経験するということから遊離してしまう。

 物事が降りかかってきたとき、当然それを頭で受け止めて理解し、対処を考えるのですが、これを頭だけで考えると、とたんに妄想が大きくなっていきます。そして現実離れしたことも、実しやかに考え始める。

 ところが、同じ問題を持った者同士が話あうと言葉はいらない。なんだ、自分だけではないのだと、それだけで心が軽くなる。経験した者同士はほんの一言で共感できる。共生できる。ここが頭で考え自己中心になるのと異なるところなのです。

 

 言葉で考えるのは抽象的ですから、頭が膨張して自己中心的になりやすい。

 

 だから鼻に縄つけて、ぐっとおさえつけ、自己中心的な思考になっていくことを警戒しろといっているのです。

 

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