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十牛図提唱1

鉄舟再復刊59号掲載(垣堺玄了)

十牛図提唱


 今回から十牛図を拝読いたしますが、始めに全体についてお話しいたします。

 

 十牛図は修行の階梯を示したもので、尋(じん)牛(ぎゆう)から始まり入(につ)鄽(てん)垂(すい)手(しゆ)で終わるのですが、これは修行階梯の一つの規範であって実際は必ずしもこのような順番でいくとは限らないことに留意してください。第一からいきなり第九に飛び、その後第八、第七へと戻る人もいるでしょう。また、第一から始まって、第二、第三と進む人もいるでしょう。中には第三で時間を費やす人もいると思います。人(にん)々(にん)生(しよう)縁(えん)が違うためにこのようなことが起こります。

 また、この階梯は一方向のように見えますが、実際は行ったり来たりの繰り返しを多く含みます。しかし、その繰り返しの中に必ずスパイラルアップがあります。くれぐれも、この階梯に即して、自分はどの階梯にいるのだろうと詮索しないことです。与えられた公案に即して参(さん)禅(ぜん)三(ざん)昧(まい)となることが、結局、十牛図の階梯を踏んでいることなのです。

 今、拝読いたしますのは廓(かく)庵(あん)禅師の十牛図ですが、この時代よりも前に、普(ふみ)明(よう)禅師の十牛図、白牛図、六牛図、八牛図というのもあって、これらを総称して牧牛図というのですが「方便」として先人は工夫されたのです。

 

 それでは、全体を通して説明いたします。

 

 尋(じん)牛(ぎゆ)で(う )修行の端緒につき、無字の公案を授けられ、拈(ねん)提(てい)、入(につ)室(しつ)する。これが見(けん)跡(せき)で修行の軌道に乗せられたところです。どのくらい経ったか、苦心の末、無字が見えてくる、見(けん)牛(ぎゆ)で(う )す。さらに得(とく)牛(ぎゆ)、(う )牧(ぼく)牛(ぎゆ)と(う )無字を自分のものとしていき、こなれてくると、騎(きぎ)牛(ゆう)帰(き)家(か)で修行の場を離れる。自分の得たことさえも忘れるとこまでこなれてくる、忘(ぼう)牛(ぎゆう)存(そん)人(じん)です。そして自分も何もなく、本来無一物の空に至る。これが人(じん)牛(ぎゆ)俱(うぐ)忘(ぼう)です。しかし、世の中には色々なものがあるわけですから、それらと自分の修行が矛盾しないところまで突き詰めていく。返(へん)本(ぽん)還(かん)元(げん)のところです。そして、いよいよ、世の中に出て行くということになる、これが最後の入(につ)鄽(てん)垂(すい)手(しゆ)です。

 

 おおざっぱにいうと、これが十牛図の流れですが、いくつか重要なことがあります。

 第一に、尋(じん)牛(ぎゆ)で(う )道を求めて鉄舟会まで来たとします。そして、無(む)字(じ)の公(こう)案(あん)を授(さず)けられ格闘します。ここが見(けん)跡(せき)だとしますと次の見(けん)牛(ぎゆ)、(う )得(とく)牛(ぎゆ)、(う )牧(ぼく)牛(ぎゆ)は(う )無字を獲得するまでの段階ということになります。ここで、見牛では何を見るのかということが大変重要です。結論から申し上げますと、見牛では、第八・人(じん)牛(ぎゆ)俱(うぐ)忘(ぼう)の円相を見るのです。そして、同時に第九・返(へん)本(ぽん)還(かん)元(げん)を見るのです。つまり、尋牛、見跡していきなり第八、第九を見る修行をさせるのが無字の公案です。当然、五里霧中、とりつく島もありません。ですからこの段階は通常時間がかかります。先ほど申しましたように人(にん)々(にん)生縁が違いますので、いきなり第九の返本還元が分かってしまう人もいるでしょうが、その人も第八、第七へ還っていくのに時間がかかるということも珍しくはありません。しかし、この見方が甘いと仮に修行を進めても、どこかに自信の無さがつきまといます。ですから、何年かかるかはわかりませんが、倦(う)まず飽きず、本当のところを見なければだめです。

 

 

 第二に、それでは( じ)尋(んぎ)牛(ゆう)と人(じん)牛(ぎゆ)俱(うぐ)忘(ぼう)、返(へん)本(ぽん)還(かん)元(げん)だけでいいのではないかという疑問が湧くと思います。つまり、一図と八図、九図だけでいいのではないかということです。

 残念ながら、そうはならないのです。分かった、それも心底分かったということですが、その「分かった」ということと、「そうなる」ということは違うのです。スポーツでもそうですが、これでやれると納得はできた、しかし、実際にスムーズに行うためには何度も何度も身体に染みこませなければなりません。禅修行も同じです。分かってもそれを阻む業(ごう)がこの身体にはありますから、自分で自分に縄をかけて飼いならすことが必要なのです。そのため、四図から七図があるのです。十牛図は法理を獲得する過程と、それを具現化する過程を一つの図の中にまとめていますので、修行の階梯が戻ったような感じを受けるのです。三図で見た牛のお尻と八図は根本的に同じものでなければなりません。しかし、自分のものとしたところを八図としたため、三図を牛のお尻と表現したのです。

 

 

 第三に、修行からの退転の問題があります。退転というのは、後戻りすること、一番甚だしいのは修行を止めてしまうことですが、この修行でいいのかなという疑問を持つのも退転です。退転とは言葉を替えれば、禅修行への不信です。三図でハッキリと円相が見えるまでが大きな関門です。少し心境が上がったかと思うとまた元通り、この繰り返しを行うので修行に対する不信が募るのです。また、三図の段階を曖昧なまま修行を進めても、常に疑問が残ったままとなりこの不信が払拭できません。

 この不信を克服するには、自分はこうなりたいと思うことに加えて、己の過去、現在を反省して、このままでいいのかと切実な想いを持つことです。それが動機、原動力となります。そして、この禅門は先達が身を賭すに値することを受け入れることです。

 

 

 第四に、十図はそれまでとは全く違う次元だということです。ここまでは指導を受ける立場です。しかし、十からはもう指導して下さる師はいないのです。自分で切り開いていくのです。その意味で十は全く違うのです。新たな七転八倒が始まるのです。その意味で本当の佛道の修行はここから始まるのです。それまでは準備運動ですし、基礎体力作りです。

 公案で、何則までやったとかいうことが気になる方がいるようですが、十図からみれば、何則やったとかの数の問題ではありません。室内が終わるのは当たり前なのです。やっとスタート地点に立てたのですから。

 

 十図では布(ほ)袋(てい)さんの右に誰かが道を尋ねています。これは、一図の自分ではないでしょうか。布袋さんとしてのスタート地点は同時に新たな修行者のスタート地点でもあるわけです。こうやって、十牛図がまた繰り返されるのです。

 

 これで一通り十牛図の全体を説明いたしました。そして、どこに関門があるかも説明いたしました。繰り返しになりますが、大事なことは、この階梯にかまわず、指導者について一則一則、無我夢中になって修行を進めることです。禅修行はこれに尽きると思います。

 

次回から十牛図の一つ一つを説明してまいります。

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