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書の心2

鉄舟再復刊54号掲載

墨気を見る

書家の書のつまらなさ

 書で大切なのは技巧や形体でなく、墨気の良否です。書道を修練する目的は墨気を深く清くするためであり、書を鑑賞する場合もただただ墨気を観察することに尽きるといっても過言ではありません。

 

 昔から、ただ技巧的にうまいだけの書家の作品が珍重されたという話を聞いたことがありません。たとえ一時はそういうことがあったとしても、長く歴史に残るほどのものはありません。中国でも日本でも、現在まで伝わって珍重される名筆は、専門の書家のものではなく、すぐれた僧か学者、または政治家や武人のものです。

 その理由は、熟練工的技巧派の書家の作品には、人の心を打つ力、あたりをこめる香りや気品がないからです。人物としてすぐれたものの墨跡には、書いた人そのものが存在しています。自己の本源から発する〝何ものか〟がそこにあります。それが見る人に感銘を与えるのです。その見る人に感銘を与える〝何ものか〟を、墨気というのです。

 

 天啓翁は「墨気とは、通俗にいう墨の色にあらず、紙の精粗にあらず、筆の善悪にあらず、心の境涯に非ざれば出し能わざる墨色を指すのである」と言っています。

天啓翁は、書の鑑賞においては古今有数の力量を持っている人だと思います。その天啓翁は書を鑑賞する場合、墨気だけを観て、他は一切無視しました。「鑑賞の第一義論は、書体に非ず、筆勢に非ず、書法に非ず、ただただ墨気の一点にあり」と。

 ところで、書には贋物が横行しています。これは書の真贋を鑑識するのに、筆勢とか書体より鑑定しようとするからだと、天啓翁は指摘しています。「もし筆勢とか書体より鑑定せんか、器用なるものは何百何千枚も臨書すれば、その書体において真跡と殆ど髣髴たるものを得ることは困難でない、これ世に贋物の流行する所以である」ところが墨気は、そうはいきません。これだけは真似ることはできません。いくら真似ても、墨気は出せるものではないのです。

 

「墨気に至っては手先では絶対に出し得ず、全く精神生活、即ち其人の人格の高さの表現であるから、大西郷の心境の人にして始めて大西郷の墨気を出し得べく、弘法大師の崇高の境涯の人にして始めて大師の如き墨気を出し得る」。

 

 だから墨跡の鑑賞とは、人物の鑑定にほかなりません。墨跡の鑑賞ができないということは、人物の良し悪しがわからないということになります。墨跡の鑑賞ができるためには、鑑賞する人の人格というか、人間修行が絶対に欠かせないわけです。

書を通じて学ぶ

 横山天啓翁はかつて「現代禅僧墨跡展」に出品された七十余名の諸禅匠の境涯を、その墨跡によって完膚なきまで批判し、「大乗禅誌」に発表して物議をかもしたことがあります。そのとき「ああいうことは、今後なさらないほうがいいでしょう」と申し上げたら、悲しそうな顔をして「君は、わしに死ねというのか」といわれた。「わしは書道をもって世の中を浄化することが、わしの使命だと思っている。それがいけないというなら、わしは死んだほうがましだ」と。

 それを聞いたとき、わたしは頭を下げました。良いものはよい、悪いものはわるいと、断乎として批判し、その批判には責任を持つどころか、生命をかけていたのです。

 

 これは私事で恐縮ですが、ある人が横山天啓先生の鑑賞眼は認めるが、内輪のものに甘いのじゃないかと批評されたことがあります。で、私は、内輪に甘いかどうか証拠を見せようと、天啓翁からもらった一通の手紙を示しました。

 それは東京の臨済会が開いた「禅匠墨跡展」に出品した私の書に対する見解が書いている手紙です。天啓翁は、墨跡展の期間中、三日間毎日見に行ったそうです。最後の日は、もう片付けていたのを、係の人にいって私のものを一幅だけ出してもらって、また何時間も何時間も見ていた。あとで一週間ほど、歯が浮いて食事がしにくかったといっていますが、それほど一生懸命見てくれたんです。

 おれは君の書を見た。初めは、いいなと思ったが、だんだん見ていると、ボロが見えてくる。そこで心配で心配でしかたがないから、また見に行った。最後の日は、もう片づけていたが、頼んで出してもらって、何時間も何時間も見た。そして最終的に自分でも納得がいって、断定を下したときは、涙が出た、と手紙にかいてあるんです。

 君は現在では、師家中の中ごろだ。中ごろでも師家として恥ずかしくない力を持っていると断定できたので、嬉しくて思わず涙が出た。禅僧として、山本玄峰、古川大航、足利紫山の三人は、古今の一流の禅者とくらべても劣らない力量を持っている。将来、これについていける力があるものとして山田無文ら二、三名がいる。君はそのあとで師家中の中ごろだ。君はここで安心しちゃいかん。一流のところまでいけるはずだ。君の欠点は才があるということだ。君が才をなくしてやれば、力においては今でも一流だ。君が本当に才をなくし、徳をたくわえていけば必ず近い将来一流のところへ行ける。おれはその力量を認めた、と書いてある手紙なんです。

 自分の弟子だからと、決してよい加減に見て、適当な意見を述べているんじゃない。そのあとで一週間物が食べられなくなった、それほど一生懸命に見てくれた上で批評しているんです。これはもう二十年近く前のことで、天啓翁も十年ほど前に亡くなりましたが、書道を通じて私は天啓翁から多くのことを教わっています。

 わたしはその頃、毎週一度行って清書を提出しましたが、翁がそれに朱で批評を書いてくれるんです。それは今も手許に残っていて、時おり引っぱり出して反省の資料にしています。その批評には、お前は才があるのでなくせ、ということや、諸刃の剣で斬れすぎるから、それを鞘の中に入れろという指摘が何べんもありました。斬れすぎるから相手を傷つけ、自分も傷つく。敵を攻めるときは、相手の逃げ道を開けておけ。お前は四方をふさいでおいて叩くようなところがある。そのような具体的なことを書を見て注意してくれるのです。

 

 私は、才があるということが嫌で、ずっと神経にひっかかっていました。ところが、それがあることから解脱できました。私の知人に八十いくつの手相見の大家がいまして、その人に「横山天啓先生に、お前は才があるのがいけない、その才を捨てよといわれた」と話したのです。すると、その人は「あんたに才があることは、その才を今の世の中で使うべく天がさずけたものだ。その才を使わなくちゃ宝の持ちぐされじゃないか。私は横山さんのように才を捨てろとはいわない。その才を大いに使えといいたい。天がさずけた天分だ。それを生かさなきゃ天分をそこなうよ」と言ってくれたのです。

 

 それを聞いたら、これまで才があるという言葉にひっかかっていたのが消えてしまって、気が楽になりました。それまでは才があるということを意識して、自分で才にひっかかっていたんですが、気が楽になったら、ひっかからなくなった。才があろうが、なかろうが、ありのままでいいじゃないか、という気持ちになれました。

 

 私は禅を関精拙和尚について修行しましたが、禅ではそのような指摘を受けたことはない。公案の問題とか禅についての指導は受けましたが、個人的な性格や才覚に対する批評や、具体的な世の中を生きてゆくための処世術のようなものは教わらなかった。むしろ書道の先生に、それを教えてもらったのです。

書というのは、そのようにそれを書いた人の人格の長所・短所を指摘して導いてゆくこともし、また自分で自分の書を見て反省の材料にすることもできるのです。

 

 書は上手に書けるようになればいい、あるいは楽しみながらやるもので、人格形成などむずかしいことを考えなくてもいい、といわれるかも知れませんが、これは結構楽しみながらできることなんです。

 とくに墨気を見て、書いた人の人格、境地がわかるようになると、昔の偉大な人物の墨跡に接することによって、時間のへだたりを飛びこえてその人と対面し、会話を交わせるわけで、これは楽しいものです。相共鳴したり、あるいは反発したり・・・。西郷南洲とか山岡鉄舟とか、禅では白隠さんとか邃翁さんなどと、生きた人に会うように対面できる。こんな楽しいことはない。決して堅苦しいものでも、鹿爪らしいものでもありません。

張る、澄む、冴える

 墨気ということについて、もう少し説明してみましょう。

 墨気は線と同じではありませんが、線を離れては存在しません。線というものを、私どもは、西洋人のようにただ面と面とが物理的に接するところに生ずるものとは考えません。また、点と点とを羅列したところに生ずるものとも考えません。一点、一点が、気合によって生命を吹きこまれ、生きて統一されたものが線であると思います。点の不連続の連続によって成るもので、一点、一点が生きて、息(い)吹(ぶ)いているからこそ、線の墨気が活きてくるのです。

 

 徳川中期の剣客に都治無外という人がいて、この人の剣の極意に「玉簾不断」という組太刀があります。玉簾とはつまり滝のことで、滝というのは水流ではない、水滴だというのです。滝は一条の水流のように見えるが、その実は一滴一滴の水玉が次から次へと落下している姿です。一滴一滴は、あくまで断絶した絶対の個でありながら、しかも連続した水流を現成しています。

 点とは不連続をいい、線とはその連続性をいいます。線は要するに、絶対現在における点が、無限にいま、いまと不連続に連続している姿にほかなりません。

 無外がこういうことを言えたのは、実際に自分が剣で斬りあった体験の結果としてでしょう。剣客は水流では動作できない。水滴として、今という瞬間にパッと行動しなければならないのですから。いずれにせよ、一介の剣客が、剣理をここまで把握したことは、驚くべきことだと思います。

 

 一点、一点に生命がなければ、その線の墨気は当然のこととして死んでしまうし、この一点に気力が集中できれば、線は活力に満ち、墨気はゆるみなく張って活きてきます。

 張るとは、たとえば綱を両端から強く引いたように、ピーンと緊張して弛緩のない状態です。これは書道の第一の関門ですが、しかし初心の段階とはいっても、相当の修練をつまないと気力も集中できないし、線を引いてもなかなか張ってきません。

 この段階の線は、いちおう強くは見えますが、枯れ枝のような強さで、曲げれば折れる固さがあります。

 さらに精進に精進を重ねていると、線が内容的に充実してきます。まだ柔らかさが出るところまでいかないにしても、気の濁りは消えて、表面的な気張りもなくなります。こうなると墨気は澄んでくるのです。

 この〝澄む〟というのは〝澄ましてる〟という言葉がありますが、あの澄ましてることではありません。コマが回転の極にあるとき、全然動かず静止状態で立っているように見えます。子供たちはそれを〝澄んだ〟といいますが、これと同じです。

 点に気合がみちて充実し、しかも不連続に連続すれば、線は活きいきとしてきます。墨気の澄むというのは、そのことです。

 されに充実して澄んでくると、不純物や夾雑物がなくなり、気はおのずから晴れわたった秋空のように、深味をもって冴えてきます。

 墨気の冴えるということは、言葉を換えれば、気品の高いということで、書の究極は、気品高く冴えるところにあると思うのです。

 その気品ということですが、俗に「美人、権あり」というのは、本当の美人ではないし、気品があるともいえません。真の気品は、内容的にいえば温潤でなければなりません。温かくて、潤いがあるということですね。

 

 字というものは、筆をおいたばかりのときは、当然潤ってます。それが暫くすると、墨が乾いてくる。乾いてきたときに、線や色が無味乾燥なものになってくるのが普通です。ところが、いくら時間が経ってもいま筆をおいたばかりのように、温かく、したたり落ちるばかりの潤いのある書があれば、それが気品があるといえるし、墨気が澄んでいる、冴えているといえるのです。

 

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