鉄舟再復刊55号 巻頭言

「道楽者」

高歩院 垣堺玄了

 前号の「幻惑」に引き続き夏目漱石の「文学論」に学びたいと思います。漱石は「文学論」の中で「幻惑」に続いて「悲劇に対する場合」という章を設け「幻惑」の特別ケースとして論じています。その中で次のように悲劇を分析しています。

「一種の人間ありて苦痛を好み困難を愛す、されど別に病的と名(なづ)くる能はざれば余は暫くこれを苦痛の道楽者または数寄者と名づくべし。これらの道楽者が求むる苦痛は決して深酷なるものにあらず、一定の度を越ゆれば忽ちにして、これを避けんとす。(中略)ここに注目すべきはこれらの道楽者の大部分が必ず社会の中層以上に属するの事実にして、所謂匹夫匹婦の間にはこの種の道楽を発見すること能はず」と。そしてこのような道楽者には「英雄或は古人崇拝の分子が幾分か混じ来ること多かるべし」とその特性を上げており、その英雄、古人は一生を困苦のうちに終わったとか、非常な窮愁を嘗めたという事実に対して敬慕崇拝の感情を起こすと言っています。

 また、「卓越の自覚、著しく増進するが故に、彼らは決してこれを脱する事を好まず」、「全く根も無き苦痛を弄ぶの贅沢屋といふべきなり」と厳しい批評を下しています。さらに、この感情は大なり小なり一般の人にもあって、それが為に、悲劇の舞台を好んで見ると言っています。                              

 

 禅の修行は命懸けと言われます。臘八の接心などは命取りの接心と言われ、多くの禅匠の修行行履は凄まじさに満ち満ちています。そういうことを聞いたり、読んだりして、それに憧れる感情が起こることはあるでしょう。しかし、命懸けというのは何が命懸けなのか自問してください。自分なりの具体的な定義がなければ命の懸けようがないと思います。入室して大きな声を出したり、芝居じみたりすることが命懸けなのでしょうか。命を懸けているような気持ちになっている道楽者ではないでしょうか。漱石の言うように「苦痛を好み困難を愛す」一種のナルシスト故に「一定の度を超えると逃げてしまう」ことになっていませんか。お互い大いに自省しなければなりません。

 

 漱石は「文学論」の別のところで、常人、能才、天才について述べています。能才とは目鼻のきく人のことです。常人は一つの事象にそれなりの時間停住してその事象からそれなりの、つまり常識的な推移を経る。天才は普通以上の時間これに停住して、他を顧みざると言っています。天才は普通以上に長く停住するが故にその事象が強烈になり、この事象において他の人が見ることのないものを見、他の人が考えないようなことを考えることができると言っています。その事象の外からそのことが来るのではなく、そのものから来るのであると。自家の宝蔵は外より来ずと禅でも言います。漱石は天才とはこのために社会人としての資質を欠くこともあると言っています。命懸けで他のことを振り切る、そういう時期が修行にはどうしても必要だと思います。それがなければ、本当の力が涌いてきません。この時間を命懸けで作る、これが禅修行を道楽としないことだと思います。

 

 

参考文献 「文学論」(上) 夏目漱石 岩波文庫 p.280  

       同上 (下) 夏目漱石 岩波文庫 p.241