再復刊54号 巻頭言

「幻惑」

高歩院 垣堺玄了

 幻惑されるとは ( まぼろし )に惑わされるということである。世の中の事象は無常である。その意味で幻と。しかし、その幻のところに一瞬一瞬、露現しているものを見ていくのが仏道だと思う。

 夏目漱石がこの幻惑について著書「文学論」の「fに伴う幻惑」で語っている。それは、ある事象Fに対して個人がどのような情緒fを引き出すかということで、漱石はF+fを様々な文学上のケースとして分析し、その構造、本質を論じている。この中で同じ事象Fでも直接的に経験するのと、間接的ではそのfが異なるといっている。自分が直接に経験することで記憶となり、そして、その記憶から想像するfと、文学などを読んで理解想像するfは異なるということである。そして、面白いのはこの両者が全く逆の反応になると分析していることである。 

 漱石は例としてシェークピアの「リチャード三世」を次のように訳出し挙げている(文学論 夏目漱石 岩波文庫 2007年)

本分は英文も記載されているが、ここでは和訳の一部を記載する。「だが俺は、浮かれ遊びに向いていないし、鏡を覗いてわが顔にうっとりするようにできてもいない。・・・不具で、未熟で、はんぱな出来のまま時満ちる前にこの世に送り出され産声を上げさせられたんだ。・・・そんな訳で、口先上手の連中が幅をきかすこの時代にちやほやされる色男になんぞなれそうにない。だからここは一番、悪党となって今日この頃の阿呆らしい歓楽を呪ってやろうと心に決めたのだ」そして漱石は、「このような化け物が自分の近くにいたら敵としてとらえ、気味悪きを覚えるが、これを一読するや彼を嫌う念よりも、むしろ彼を賞嘆すること数倍なるを自白する」と白状し、この感情を「自己の利害得失の念一向心に起こり来らざるが故に、この自己観念より起こるfを除去抽出して作中の事物に対し得る場合」であり、「吾人は事実と全く正反対のfを生じ得るという現象にあり」といっている。確かに、これを読んだ時、嫌悪感どころか、いとおしく感じてしまうのは私だけではないと思う。漱石はこのことを「読者の幻惑」と呼んでいる。自己に危害が直接及ぶ場合、それを避けるためにこれを嫌悪するのは当たり前である。また、そうでない時にその嫌悪される事象を賞嘆するというのも本心だと思う。同じ事象に対して全く正反対の感情を持つ。この時、我々は二者択一しているわけではない。間接的というのは客観的ということだが、そこは我がないところである。ここに、正反対の、しかも両方とも真という感情が生まれるのだと思う。大事なことは事態に当面した時に直接間接の情を合わせ持つことができるかどうかだと思う。

 禅は無住を根本とする。無住とはどこにも( とどま )らないということだが、その時の状況に応じて最適な行動をとり、しかも、我なしという一貫性を持つものである。これを無住処といい、そのように成り得た心を無住心といっている。無心である。それには、偏らないということだけではなく、知識、考え方の間口が広くなければならないと思う。六祖壇経にも解脱知見香なるが為に「須らく広学多聞すべし」とある。解放された心から出る智慧が、その徳を発揮するには広い見聞と、高い見識が必要であるということだと思う。難しいことだが、お互いに心すべきことと思っている。