鉄舟再復刊58号 巻頭言

「般若心経(一)」

垣堺玄了

鉄舟会では月に一度、例会とは別に「坐禅と法話の会」を開催しています。そこでは、一休禅師の般若心経法語を拝読しています。仏法並びに禅について普く語られており、読み返す度に発見があり、奥深さを感じます。これから数回にわたり鉄舟誌の上で紹介したいと思います。

 

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経

摩訶般若波羅蜜多心経

 

 

是は天竺のことばなり。摩訶とは、大といふこころなり。大といふ心をしらんとならば、先づわが小さきこころをつくすべし。小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人とのへだてをなし、佛と衆生のへだてをなし、有無をへだてて、迷悟をわかち、是非善悪の隔てあり。

之を小心とはいふなり。この心を盡せば、われ人のへだても、佛と衆生の隔てもなくして、有無の心も、まよひといふことも、さとりといふことも、皆平等にして、さらにへだてあることをしらず、これを大心といふなり。此の心は、虚空のかぎりなきがごとし。是れ即ち一切衆生の我々の上に、元来そなはりたる本性なり。しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におぼれて、此の大心を見ることをしらず、色々わけへだての心あるゆえに、有無の二つにまよひ、生死の二つに隔てられ、いろいろに顛倒迷妄するなり。

 

 

「是は天竺のことばなり。摩訶とは、大といふこころなり。大といふ心をしらんとならば、先づわが小さきこころをつくすべし」 摩訶とは天竺(インド)の言葉で大という意味ですが、大という心を手に入れようとするならば、まず我々の持つ小さい心を滅尽しなければならないと申されております。

 

「小心とは、妄想分別なり。妄想分別あるが故に、我と人とのへだてをなし、佛と衆生のへだてをなし、有無をへだてて、迷悟をわかち、是非善悪の隔てあり。之を小心とはいふなり」 小心とは妄想分別のことを指します。その妄想分別で自分の心を小さく固めてしまうい、ここで申される様な隔てが生じます。しかし、この隔てとは元来、人が生きるための本能から生じるものです。例えば、自分と他人とを区別しなければ自分を守ることができません。ところが、一人では生きていけないのも事実です。自分は他人を疎外するが他人は自分に親近して欲しいとはいかないのです。ですから、この隔たりというのは扱いが難しいのです。隔たりがあって隔たりなしのように一見、矛盾した扱いをする必要が生じます。これが旨くいかないところに悩みも生じます。このように悩む心を仏法では小さい心、妄想分別と呼んで、これを取り去ることを修行の主眼とするのです。他人のせいにするのではなく、自分をみつめ、変えることから始めるのが仏法です。

 

「この心を盡せば、われ人のへだても、佛と衆生の隔てもなくして、有無の心も、まよひといふことも、さとりといふことも、皆平等にして、さらにへだてあることをしらず、これを大心といふなり」 今北洪川老師は、「禅海一瀾」の中で「獅子王の吼哮するに百獣震駭するが如し」と述べられ、釈宗演老師はここを「精神上のこの獅子王が一たび吼えるというと、一切の煩瑣なる念、懐疑の念、煩悶の念という、そういう鼠の如きもの、いたちの様な考えは、皆死んで仕舞う」と仰られております。鼠の如きもの、いたちの様な考えが小心です。それを獅子吼のような坐禅で断切っていくのです。そしてその後に現れる心が大心です。

 

「此の心は、虚空のかぎりなきがごとし。是れ即ち一切衆生の我々の上に、元来そなはりたる本性なり」 大空に限りがなく一切のものの上にあるように、この大いなる心というものも元来、我々一人一人の全てにおいて備わっているものです。禅修行ではこの認識を手に取る様にハッキリさせることを最初の関門とします。

 

「しかれども、凡夫は妄想分別の小さき心におぼれて、此の大心を見ることをしらず、色々わけへだての心あるゆえに、有無の二つにまよひ、生死の二つに隔てられ、いろいろに顛倒迷妄するなり」 我々は知らずのうちに、小心である妄想分別で判断してしまいがちです。そして、知らずのうちに大心で判断してもいます。小心で心が満たされている時は大心は現れません。同じように大心で心が満たされている時は小心は姿を消します。顛倒迷妄する時は小心で心が満たされているだけなのです。

いかがでしたか。一休禅師は経題の「摩訶」についてここまで提唱されます。頓智の一休さんというのは、どうやら創作のようです。しかし、それを彷彿させるような切れ味ではありませんか。どうぞ、何度も読み替えしてみてください。

                               次回以降に続く

 

参考文献

一休法語集註解 般若心経提唱  青年修養会編  国立国会図書館デジタルコレクション

禅海一瀾講話  釈 宗演    p72     岩波文庫