坐禅儀提唱(四)


 僧堂の大接心では、朝四時に起きて夜中の十一時まですべての動作は鳴り物を合図に行います。一日中言葉を発することはありません。その為、自分の中へ中へ入っていくことがしやすいのです。一週間、続けていくうちに、自ずと坐禅儀で言う( じよう)に入っていきます。それが大接心の大きな意味だろうと思います。

 臨済禅では公案拈提(こうあんねんてい)を修行の一つとしますが公案は解く為にあるのではなく、禅定(ぜんじよう)を培う為にあるのだということを履き違えないで欲しいと思います。クイズみたいに考えてしまえば、電車に乗っていても見解(けんげ)を捻り出すことができます。道場へ来て一(しゆ)か二 (しゆ)坐って入室し、手掛かりを求める。それは禅の修行に程遠いと思います。居士禅に限らず注意の必要なところです。僧堂では「公案を分かろうなんて、甘ったれた考えでどうするんだ」「公案を分かろうとすること自体が間違っている」と言われます。では、どうするのか。「自分が分からなくなるまで坐れ」と言われます。そう言うと公案の拈提ができませんと言う人がいますが、心配いりません。捻り出しても入室で跳ね返されるだけですから。家でも、きちんと時間を決めて、どんなに疲れようが坐らないとダメです。雲水でも大接心の最初の三日間位は体が言うことを聞いてくれません。四日目位からようやく体の力が取れて坐禅そのものになれます。ですから鉄舟会で参禅する時にも、日常の修行がとても大事になります。ましてや、貴重な参禅の機会を逃すのは大変残念なことです。

 

(まなこ)を須く(すこ)し開き昏睡を致すことを免かるべし」

 寝ないように少し(まなこ)を開きなさいと読めますが、目は瞑っても寝ない者は寝ません。目を開いていても寝る者は寝ます。修行の心構えの問題です。昏睡を致すというのは、ただ単に眠るということではありません。自分の世界に入ってしまうこと、気持ちの良い世界に入ってしまうこと、坐禅儀はこれを嫌っています。自分の世界に入ってしまうから眠るのです。自分を覚醒させて生きた禅をしなさいと言っています。その為目を開く、心の眼です。

「若し禅定を得れば其の力最勝なり」

 禅定とはここでは、坐禅による定力を言っています。定は三昧ですから、禅定は「坐禅による三昧」となります。もしそれを得れば、定の力は最勝なり。坐禅による三昧( ざんまい )の定力が、定力を養う中で最も最勝であると。三昧( ざんまい )( おう ) 三昧 ( ざんまい ) のことです。禅定が何故必要なのか、後で述べることになると思いますが、ここでは定力は坐禅で錬るのを主とすると捉えてください。

 

( いにし )習定 ( しゆうじよう ) の高僧あり。坐して常に ( まなこ ) を開く」

 過去の禅匠は坐禅する時、常に目を開いていたぞと。この坐禅儀を書いたといわれる 長蘆宗賾 ( ちようろそうさく ) 禅師も聞き伝えに、あの人も、この人も目を開いていたと聞かれたのでしょう。

 

( さき ) の法雲の円通禅師」

 法雲の円通禅師とは、長蘆宗賾禅師のお師匠さんです。非常に尊敬しておられたのでしょう。「古え習定」と一般論をもってきた後に、「俺の師匠の円通禅師はこうおっしゃった」と具体的な話を持ち出してきたわけです。こういうところが、禅の師承の師承たるところ、師子相承のところだと思います。自分の師匠から言われた言葉は生涯忘れません。

 

(また)人の目を閉じて坐禅するを()して以って黒山(こくさん)鬼窟(きくつ)()う。(けだ)深旨(じんし)の達者有りてこれを知るべし」

 これは有名な言葉です。黒山の鬼窟には「独りよがり」という意味があると思います。禅は気を付けないと、そこに陥ることがあります。自分の考え、自分の世界で、公案も勝手に解釈する。無字三昧だというのに正反対の「有」で捉えてしまう。修行中はどこまでいっても無字の世界です。有の世界に身を置くのは修行の目処がついてからです。居士の場合、この有無を分けて生活するのが難しい。その為、知らず知らずに有で考える癖がついているのです。これも鬼窟です。そこをよく理解した上で間違った方向に行かない様にしなければなりません。その意味でも目を開くのですが、なんといっても入室して点検することが欠かせません。

 

身相既(しんそうすで)に定まり気息(きそく)(すで)に調い(しか)して後、臍腹(せいふく)寛放( かんぽう)し一切の善悪、(すべ)て思量すること(なか)れ。念を起こして即ち覚す。之を覚すれば即ち久久( きゆうきゆう )に失す」

 身体の相が決まって、呼吸が整った後、丹田とその周辺、下腹部全体をゆるめて一切の善悪を思量すること莫れと。呼吸というと腹式呼吸、丹田呼吸、逆腹式呼吸とか色々あります。事細かに研究したのが天台の門です。長蘆宗賾( ちようろそうさく )禅師も天台の 魔訶止観( まかしかん )あるいは小止観、そういったものを読み込んでここへ持ってきているわけですが、「気息既に調い然して後、臍腹を寛放し」と、この一行で呼吸の要点を述べています。物理的なことを申しますとお腹周りの筋肉というか筋膜が固くなると胸が引っ張られ猫背の方向に向きます。すると益々、胸の周りも固くなり首も前屈みになり坐相が崩れてきます。そういう時、お腹から胸にかけて手で擦っていくと胸が開くのが分かると思います。力むとどうしてもお腹の筋肉に力が入り、前屈みになり胸の周りも固くなって坐相が崩れます。丹田に気を集中させても、表面の筋肉を固めてはいけません。自然に呼吸をしていると坐禅が進むにつれ、丹田、腰周辺に気が充実するようになります。「臍腹を寛放し」にはそういう意味があると思います。次回は「一切の善悪」から入ります。

 

「禅宗四部録 坐禅儀提唱」(平成三十一年一月十九日 提唱を抄録 鉄舟会齋藤)