坐禅儀提唱(六)


()( )()の意を得れば則ち 自然(じねん)四大軽安( しだいきようあん)精神爽利(せいしんそうり)なるべし」

 ここまで、「諸縁を 放捨(ほうしや)、万事を()め、動静無間( どうじようむけん)」から始まって、「食事、睡眠の多少、結跏半跏、母指をつける、目を開く」など細かく注意事項が述べられてきました。そして「一切の善悪すべて思量すること(なか)れ、念起きて即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久久に縁を忘じて自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり」を受けて、「若し此の意を得れば」と続けられます。一番言いたいのはここだということです。ここを本当に体得できれば「自然に四大軽安精神爽利」になると。四大(しだい)とは精神を含むこの身体ですから、重荷を降ろしたように心も身体も爽快で研ぎ澄まされるということです。

 しかし「一切の善悪すべて思量すること莫れ、此れ坐禅の要術」と言われて、「わかった」「やった」「できた」となるでしょうか。次々と、妄想妄念が湧き、蟻地獄というのが本当ではないでしょうか。しかし、超えて行かなければならないところです。

 

 白隠禅師坐禅和讃に「辱く(かたじけな) も此の(のり)を一たび耳にふるる時、讃嘆隨喜(さんたんずいき)する人は福を( )る事限りなし」とあります。私が二十歳代の時には大森老師や山田無文老師の本がたくさん出ていました。それを読んで感激して「うん、これだ!」、「これでぶち切れる」と。任侠映画を見て肩を張って映画館を出てくるような感じです。四大軽安精神爽利、なんでも来いという感じです。しかし修行が出来ていないので現実に会うとアット言う間に吹き飛んでしまいます。「若し善くこの意を得れば」と簡単に書いてありますが、意を得るまでには相当な修行が必要なのです。

 

 ノーベル賞受賞者の山中教授は、ある講演の中で「初心をすぐに忘れてしまう」と言う話をされています。山中教授は二十五歳の時にお父上をC型肝炎で亡くされています。当時は原因が分からず、結局、決定的な治療を受けることなく亡くなられた。闘病生活のお父上の懇願で山中教授は医者になりますが、お父上を助けられなかったその無念さから「自分は、臨床医ではなくて、医学の研究をして世の中の苦しんでいる人を助ける」と覚悟を決めたそうです。

 アメリカへ渡って細胞の研究を六年間するのですが指導教官から「人が成功するためにはビジョンとワーク・ハードの二つが必要である。君が、夜中も土日も出て研究しているのは知っているが、君のビジョンは何だ?」と聞かれた。その時、初心をすっかり忘れ、研究だけしか頭になかったので「私は良い研究をして論文を出して、世の中に認められたいんだ」と答えた。指導教官は「それは、ワーク・ハードの一部である」、「ビジョンというのは、人がそれに共感して、君と一緒に働いてくれる、そういうものがビジョンである」と言われた。その時「自分は父親を亡くしたときに思ったことを忘れていた。初心を忘れていた」と気付いたそうです。

 その後、三十一歳でアメリカから帰ってきて、ある医療大学院大学の助教授になるのですが、新入生を研究室に勧誘するとき、周りは有名教授ばかり、こちらはまだ無名の若造ということで頭を悩ましたそうです。しかし、その時に研究に入った動機に戻ったそうです。医学の力で人を救うという。万能細胞はIPS細胞が初めではないそうです。すでにノーベル賞を貰っていたES細胞という万能細胞がありました。しかし、これには人の受精卵から作るという倫理上の問題があったそうです。受精卵を使わず、血液や皮膚から作れたら倫理上の問題もなく安価なものが作れる。そして誰にでも使ってもらえる。このことを訴え、新入生三人に来てもらった。その人たちが猛烈に働いてくれて、六年間でIPS細胞の基礎が出来上がったそうです。それは父親を亡くした時の初心を思い起こしたことから始まっています。

 

 「一切の善悪を思量すること(なか)れ」。これは実際にやってみると、非常に難しいのです。大森老師も言われているようにコマが回転して充実しながらも外から見ると止まっているように見える。そういう充実した 非思量(ひしりよう)ですから。坐禅して気持ちが良くなった程度ではダメなんです。「此の意」というのはここのところです。これを得るには時間がかかります。その為、先が見えないのです。そして途中で止めてしまう人が多いのです。しかし、誰にでも坐禅するときの初心があるはずです。その初心を忘れないことです。忘れては思い出し忘れては思い出しです。山中教授でも「父親を助けてあげられなかった」というのが原点です。

 

正念分明(しようねんふんみよう)なれば法味(ほうみ)(しん)(たす)く。寂然なれば清楽(せいらく)なるべし」

 正念分明というのは妄想分別なく道理がハッキリしていることです。法味とは法理に対する言葉で法の情けと言えると思います。山中教授の話にもありましたが、人は理屈ではなく共感に動きます。そのように妄想分別のない無垢なところに法が現れ、なるほどと情が動いて納得する。これが法味神を資けるということです。そして、コマのように周囲は回転しているがその中心にいる主人公はドンと軸を据えている。これが寂然清楽です。

 

()(すで)に発明すること有る者は、(いい)つべし、龍の水を得るが如く虎の山に()るに似たり」

 龍が水を得て、勢いよく泳いでゆく。虎が山の中に放されて駆けずり回る。「寂然なれば清楽なるべし」と言うと、仏法を沈み込むイメージで捉える人もありますが、そうではありません。自分の小さい心を離れて大きな自在な心であること、これが寂然清楽です。ここを間違えると気の抜けた禅になってしまいます。白隠禅師は見性は最初の段階だと、その後が大事なんだと悟後の修行を盛んに説いています。発明することある者はそれで終わりということではなく、水を得た龍のような、山に放たれた虎のような自在な心を錬れということだと思います。

 

「若し未だ発明することあらざる者も(また)乃ち風に()って火を吹き力を用いること多ならざるなり」

 修行している時は必死です。苦しいのです。しかし後になってみれば、あの苦しかったことが、惨めなことがあったから今があるとなります。逆風が吹かなければ真剣にならないのが人情ではないでしょうか。その逆風が風に因るところです。そして火の出るような修行の後、未発明が発明となる時、既に力を用いることは無くなっているのです。

 

()肯心( こうしん)(べん)ぜば必ず相い(あやま)らざる」

 肯心、自分が、「うん」と納得するところです。玄中老師もよく仰っていました。「自分に正直にやらなきゃだめだよ」と。公案でもそうです。分かっているのかそうでないかは自分が一番よく知っている。白隠禅師は「 四智辨(しちべん )」の中で、何度も何度も公案を練りなおせと言っています。新しい公案の見解(けんげ)が出たならば、もうそのことは忘れて、前の公案に戻って錬り直すことがとても大切です。そうしていくうちに自分は何が分かっていないのかがハッキリしてきます。そして、それに真剣に向かい合う。そうしないと、そのうち迷路に陥ったり、増上慢になってしまいます。肯心ということ、我々は心しなければならないと思います。

 

「禅宗四部録 坐禅儀提唱」(平成三十一年三月二日 提唱を抄録)