坐禅儀提唱(八)


 坐禅儀は、定慧一等(じようえいつとう)という考えで貫かれています。坐禅をする時の注意事項をいろいろと述べ、禅定(ぜんじよう)とはこういうものだと示します。

 

()禅定(ぜんじよう)の一門は最も急務たり」

 修行においては禅定を培うことが最急務であると。この心を忘れないことが肝要です。惰性に陥らないことです。

 

「若し安禅静慮(あんぜんじようりよ)ならざれば」

 安禅とは坐禅に入るということです。静慮(じようりよ )というのは、禅定の中国語訳です。「坐禅に入って禅定を得なければ」と次に続けます。

 

這裏(しやり)に到って(すべ)からく茫然(ぼうぜん)たるべし」

 「這裏」というのは、「坐脱立亡(ざだつりゆうぼう)」が後で出てきますので「死」という意味に取れます。また、「いざという時」、「土壇場」とも取れます。禅定がなければ茫然としてしまう。茫然とは流されるということです。

 最近お亡くなりになった国際政治家の高坂正堯(まさたか )さんが、過去の第一次、第二次大戦など諸々の戦争のことを国際政治的な観点から調べていくと、戦争という局面、いわゆる「いざという時」ですが、その局面に立つと、どの国民も政治家も「やるかやられるか」の二者択一になってしまうと言っております。国際紛争ですから利害が絡むわけですが、実際によく調べていくと、その当時に紛争を回避する可能性はいくつもあったということです。それにも関わらず、二者択一へ行ってしまう。これも茫然ということです。

 

所以(ゆえ)(たま)(さぐ)らば (よろ)しく浪を静め、水を動かさば取ること(かた)かるべし」

 これは、洞山良价(とうざんりようかい)禅師のお言葉です。水の中にある珠を取ろうとすれば、まず、波を静めて、どこにあるかということを見極めなければならない。取ろうとして水を動かしてしまったらば、波が立ってどこにあるのか分からなくなってしまうということです。

 坐禅はまず気を静め、精神統一します。それが「浪を静め」ということです。次の「水を動かさば取ること難かるべし」ここが難しいところです。坐禅して 見解(けんげ)を出さなければならないといって、一所懸命考える、それが水を動かすということです。そうするとその珠はどこかへ動いてしまう。だから坐禅して「一切の善悪、すべて思量することなかれ」となります。非思量のところから思量するのです。非思量だから考えないということではありません。考えなければ見解は出てきません。それを、自分の考えで考えないということです。ですから自分の考えは、室内で否定しもらわなければならないのです。

 

定水澄清(じょうすいちようしよう)なれば心珠(しんじゆ)自ずから現ず」

 波が静かになって水が澄んでくれば、こんどは「心珠」、ただの玉ではなくて「心」という字を足しています、それが「自ずから現ず」。皆さんもご経験をお持ちだと思いますが、伝統の 見解(けんげ)とほぼ同じものが出る時があります。後から考えてみると、必ずこういう風になっています。

 

「禅宗四部録 坐禅儀提唱」(平成三十一年三月十六日 提唱を抄録)