坐禅儀提唱(五)


 坐禅には、一人で行う坐禅と皆で行う坐禅とがあります。一人で行う坐禅を独坐、皆で行う坐禅を規矩坐(きくざ)といいます。規矩とは、僧堂の決まりです。その決まりに則って行う坐禅なので規矩坐といいます。(のち)に師家になるというほどの雲水は規矩坐(きくざ)以外に寝る間を惜しんで夜坐を行っています。規矩坐(きくざ)以外に何故(なぜ)(ひと)りで坐るかというと、そこに自ずから違いがあるからです。独坐は自分のペースで行えますからその時の状況により納得いくように坐れます。一方、規矩坐(きくざ)は坐禅、二便往来( にべんおうらい )経行(きんひん)入室(につしつ )など時間を厳格に決めて行いますので、そこには自分のペースの入る余地はありません。規矩のペースがあるだけです。次の公案を見てこいと言われても、語を引いてこいと言われてもその間は出来ない。規矩坐が全て終わった後、皆が寝静まった中一人で調べるしかないのです。大接心(おおぜつしん)中など、睡眠時間が二時間程度などということはザラです。そういう厳しさがあります。しかし場のエネルギーにより禅定(ぜんじよう )を錬ることが出来るのです。

 更にもう一つ、規矩坐(きくざ)には修行の上で大切な意味があります。私が隠侍(いんじ)をしていた時に老師が新到雲水(しんとううんすい)に「僧堂では皆が同じことをやることに意味がある」と仰られていたのを思い出します。実際には「やる」というよりも「やらされる」わけで、最初はいやでいやでしょうがないのですが、「同じことをやることに意味がある」と老師は言います。つまりそれは、そこに「自分が無い」ということです。自分の考えの入る余地がない。常に「自分を差し挟むな」ということです。しかもそれは坐禅に限りません。三六五日、二十四時間全員が規矩に則って生活する。一つも勝手なことが出来ないようになっているのです。だから、 拈提(ねんてい)を深めようとすれば、他の雲水が寝静まった後にそっと抜け出して夜坐をするしかないわけです。

 居士禅も家で坐るのと例会に来て坐るのとでは大きな違いがあるのです。例会では皆で掃除をして同じ作務をしてお経を読んで坐禅してと。それが積もり積もって禅の修行になるのだと思います。禅会で坐禅だけすれば良いと考えている人や、参禅だけすれば良いと思っている人を見かけますが、それでは修行にはなりません。それはかえって自己増長になってしまいます。皆と同じことをする、ここに修行の意味があるのです。そう考えて坐禅儀を読むと、一層深く読むことができると思います。

 

「一切の善悪、(すべ)思料(しりよう)すること(なか)れ。念起きて即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す」

 善悪を思量しないということは、どこにも心が付着しないということです。どこにも付着しないということは、どこへでも動いていけるということです。不動の動です。どこへもで動いて、用が済んだらもうどこにも付着しない。それを坐禅儀では一切の善悪を思量すること莫れといっています。念が起った時、それに「ハッ」と気づけばなくなる。これは事実です。しかし、またすぐに念が起きてくる。念が起きては消し、念が起きては消し、この連続をずっとやるわけです。心から「なるほど」と納得するまではどうしても「(これ)で良いのか」「ダメだな」の思いが先行します。そこを打破してくれるのが信じる心です。「信心銘(しんじんめい)」の冒頭に「至道無難(しどうぶなん )唯嫌揀擇(ゆいけんけんじゃく)とあります。道に至ることは難しくない。ただ揀擇(けんじやく)く、選択をしなければ良いと。これが善悪を思量しないということです。「信心銘」は「信ずる心の銘」です。何の疑問も持たずに頭から信じたのでは妄信に過ぎないのですが、この信じるという心が決定しない間は修行にはなりません。信じるというのは身を任すことです。

 師を選ぶのに三年掛けろと言われます。これは、師を選ぶのにじっくり時間を掛けろということですが、師に就いて三年経なければ、その師が分からないとも言っているのです。「良い」とか「悪い」とかを語る前に、先ずその師に真剣に()いて信じてやっていくということです。上士は恨につく、中士は徳につく、そして下士は勢につくといわれます。師の徳を慕って修行している内は修行の成就は難しいと思います。それは自分から求める心が弱いからです。師の悪辣な仕打ちに会ってこそ本当の修行です。師に悪辣な手段を取らせるかどうかは修行者の真剣さです。

 ところで、「念起きて即ち覚せよ。これを覚すれば即ち失す」を「念起即覚(ねんきそくかく )覚即失(かくそくしつ)」とそのまま読めば、念の起こるその者が覚者、悟るものであり、覚というのは即ち捨てること、失であると読めます。つまり、昨日もだめ今日もだめという念の起こるその人が覚者だぞ、その念が去った時そのまま覚者だということです。これは理屈のように聞こえるかもしれませんが念の起こるその者が仏だから修行が成就するのです。

 

久々(きゆうきゆう)に縁を忘じて、自ら一片となる。これ坐禅の要術なり」

 縁には内縁と外縁があります。内なる縁とは念、主観です。外縁は外境、客観です。主観も客観も無ければ、ひとつしかありません。これは理の上ではそういうことですが、実践ではなかなかそうはいかない。昨日もだめ、今日もだめ、それでもいいのです。それは自分がだめと考えているだけで、法の眼からみれば念が起きては切る、念が起きては切る、その刹那、刹那に法が現前しているからです。(実は念が起ころうが起こるまいが、法は現前しています)だから、止むことなく、真剣に求法すると縁に会ってハッキリと自覚し、体現するのです。これが坐禅の要述です。「久々に縁を忘じて」とは「正念相続(しようねんそうぞく)です。「自ら一片となる」よう正念相続する、これを工夫といいます。

 

(ひそか)(おも)んみれば坐禅すなわち安楽の法門なり。しかるに人多く(やまい)を致すは、( けだ)し用心を善くせざるが故なり」

この疾について天台の 魔訶止観(まかしかん)小止観(しようしかん)に色々書いてあります。安楽の法門なのに坐禅をしていて肉体的な病気にもなるし、精神的な病気にもなってしまうのはどういうことか。それらに対する諸注意が書かれています。用心が足りないからだ、間違った方向に行ってしまったからだと坐禅儀は言っています。その間違った方向の代表が外に求める坐禅です。仏法を特別な崇高なものと捉え、自分の外に見てしまう。一人よがりの坐禅などもこの類です。自分はそうではないと思っても、知らず知らずに陥っていることがあります。だから入室して点検するのです。

 独坐と規矩坐、入室、作務、これらが一つとなって修行となるのです。

 

「禅宗四部録 坐禅儀提唱」(平成三十一年二月二日 提唱を抄録 鉄舟会 齋藤)