坐禅儀提唱(九)


「故に円覚経に云く、無礙清浄の慧は皆禅定に依って生ずと」

 この圓覚経と前の楞厳経は中国において禅を発展させたものとして重要なお経です。それで「円覚経にも、智慧というのは禅定から出てくる」と書いてあると述べています。六祖慧能禅師からつながっている「定慧一等」を示しています。

慧(智慧)とは何か?ということを坐禅儀は直接説明しておりません。しかし坐禅和讃には「三昧無礙の空ひろく四智円明の月さえん」とあります。三昧無礙が「禅定」です。四智円明の月さえん、の四智が「慧」です。四智とは大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智です。これにつきましては別の機会にお話したいと思います。

 

「法華経に云く、閑処に在ってその心を ( しゆう ) ( しよう ) し、安住にして動ぜざること須弥山の如くなるべしと」

 更に法華経を引用して、「静かなところに坐って、その心を ( しゆう ) ( しよう ) し」と、修も攝も「おさめる」という意味です。「心をおさめて安住して、動かないこと須弥山のようにして坐れ」と。

 

「是に知んぬ、凡を超え聖を越ゆることは必ず静縁を仮る」

凡というのは、「俺が、俺が」で生きている今の自分、そこから脱したいと思うから坐禅して、公案の拈提をし、修行するわけです。「凡を超え」というのは、そういう振り回されている自分を超えていくところです。なんとか脱却したいと思っているところです。そして「聖を超ゆる」とは脱却したところです。それは静縁によって導かれていくと。坐禅することを静中の工夫といいますが、この静中の工夫が縁となって発明すると坐禅の意味付けをしています。

 

「坐脱 ( りゆう ) ( ぼう ) は須らく定力に憑るべし。」

 坐脱立亡といえば、山岡鉄舟翁の坐脱、それから、関山国師の立亡を思い起こします。いずれも死ぬことですから、いざという時です。しかし、死ぬ時とは限らず、いざという時の対応は普段の心の錬りかたに依ると。それを定力と呼んでいます。これは胆力ですが生死脱得です。生死脱得とは本源をつかみ、徹底することです。坐脱立亡はその結果です。

 

「一生を取辨することはなお恐らくは蹉陀たらん。」

 この定力も一度開発したらそれで良いというものではありません。一生をかけて保ち養い発達させることが必要です。

 

「況や乃ち遷延ならば」

「何をもってか業に敵せん。」

 今日は寒いから、今日は調子が悪いから・・・なんだかんだと言って、延ばし延ばしにするならば、自分を悩み苦しめているものに、どうやって打ち勝つつもりなんだと。

何かをやるときは固めてやらないとダメです。万遍なくやるということも必要ですが、緩急が大切です。

 一生かけてやるという意志が必要ですが、、その中には集中没頭してやるという期間が必要です。いつかはいつかはでは埒があきません。必要性がわかっているなら決定して実行しなければなりません。

 

「故に古人云く、もし定力無くんば、死門に甘伏し、目を覆いて空しく帰り、宛然として流浪せんと」

  そうやってある時は集中して固めてやる、そして一生かけて油断なくやる。そうやって定力をつけていくのです。一人でやるのは危険です。指導者について道友とともに歩む。そうしないと定力と思っても、あらぬ方向へ向かう時があります。本物の定力をつけないと現実のところで役に立たない。しまいには禅なんてということになり、相変わらず腹に落ちることなく、さまよい続けるぞといっております。

 定力というと腹ができているとか、落ち着きがあるとかのイメージが強いようですが、定力というのは、正しく生き抜いていく智慧を持つ定力です。そういう定力を開発するのが坐禅です。

 

「幸いなることは、諸の禅友、三たびこの文を ( かえ ) って、自利利他、同じく正覚を成ぜんことを」

 最後に「幸いなことに禅友の皆さん、ここに坐禅儀があるから、これを何度も何度も読み返しなさい」と述べております。この坐禅儀は削りに削った文章になっています。一度読んで、さらっとわかったつもりにもなってしまうかもしれません。しかし、一字一句を丁寧に心をこめて読んでください。この一字一句は自分にとってどういうことを意味するのかと具体的に自問自答するのです。これは根気のいる仕事ですが、しかし、その段階段階に応じて発明することがあります。そしてその発明が智慧となります。それほど奥深いのです。

 自己を究明すれば必ず他己を究明することになります。世界がどういうものかがハッキリとわかります。そして、それを現実の世界で、自分も相手も生かしていくということに発展させていく、それが「自利利他正覚を成ぜん」という実行力です。分かっただけでは足りません。それを実行してこそ坐禅の意味があります。そのために「三たびこの文を復って」深く吟味して坐ることが必要だと思います。                 

                          講了

 

「禅宗四部録 坐禅儀提唱」(平成三十一年四月二十日 提唱を抄録)